『都市と地方をかきまぜる』

《目次》

本との出逢い / Encounter

著者紹介

著書紹介

概要 / Summary

・生きる実感の喪失、その原因。

・「消費」とは「他人事化」すること。

・「限界都市」行き詰まる地方、そして都市

・「グラウンドに降りる」

書籍情報


《 本との出逢い / Encounter 》

2015年、秋。ちょうど2年半前か。僕は、大学3回生。「就職」が、現実に、目の前に、迫っていた。その迫っている感覚に焦っていた。

大学3回生の夏。いくつかサマーインターンを受けた。ボロボロだった。GDの「解き方」に嫌気が指していたし、面接では、簡潔にしゃべることができない。インターン本番では、チームの人と仲良くやれなかった。プライドが邪魔をした。自分のことばかり考えていた。相手より、優れていたかった。

一番きつかったのは、就きたい職がなかった。とりあえずコンサルと人材を受けていた。コンサルなら性格に合うかなと。人材で、人の成長に関わるのも悪くないなと。それぐらいだった。

秋。ふと気づいた。「就活」ばかりしていると、基本都会に行くことになる。僕は、都会で住むのは嫌だった。人混みが苦手だった。東京に行くのが嫌で、京都の大学を選んだ。でも、なぜ僕は、就職で都会へ行こうとしてるのか。疑問に感じ始めた。

長野へ帰ろうと思った。就活サイトで「勤務地:長野」で調べたら。驚いた。地銀、福祉介護、農業、精密機械。限られた職種しかなかった。同じサイト上で見たら、都会の仕事の方が楽しそうだった。「長野へ帰るなら、僕はこの中から仕事を選ぶのか…?」失礼な話だが、その時はそう感じた。

「起業しよう」そう思い立った。長野でおもしろい仕事がないならば、創ればいい。圧倒的に狭い視野だが、そう思った。けれど、「起業しよう」で起業できるものではない。具体的に何をするのか。想像がつかない。「ならば、地方でおもしろいことをしている人に会いに行こう」こうして、僕の地域巡りが始まる。

講演を聞きに行った。ワークショップに参加した。地域活性化合宿に参加した。「独立準備中」と書いた名刺を作って、とにかく人に会って回った。こうするうちに出逢った人がいる。今回の著者、「東北食べる通信」編集長・高橋博之さんだ。たまたまBOOKOFFで手に取った本。それが前著『だから僕は農家をスターにする』読んで、感動した。いまの自分を書いているかのようだった。現代に生きる人々の闇を、明確に、そして理論的に指摘し、現代が失ったものが、地方の農家・漁師にはある。だからこそ「都市と地方をかきまぜる」のだ、と。

現代に生きる人々の闇。それは「生きる実感」の喪失。これだけ豊かになった社会で、なぜ「生」を感じられないか。原因は、消費社会にある。あらゆる財やサービスが「商品化」された資本主義社会。お金を払って、その対価を受け取る。この「消費」を通して、多くの現代人の生活は成り立つ。この時、人々は「お客様」になる。自分で手を加えず、頭も使わずに、ただ享受する。生産側の事情を想像することもなく、支払った貨幣と同価値の商品を要求する。これが当たり前になると、想像すらできなくなる。消費者の欲望は大きくなり続け、「もっと便利なもの」を生産側に要求し続ける。

この構造が、日本全体を覆う。食だけではない。政治、教育、医療、福祉、まちづくり…。あらゆる局面で「お客様」となった人々は、その分野における課題に、自ら関わろうとはしない。ただ、要求するのみだ。課題の「当事者」にならない、現代の人々。しかしこの時、「生きる実感」など湧くだろうか。リアリティとは、自ら動き、考え、手を加えた結果でしか得られないのではないだろうか。

著者は、国民みんなが観客席から批判する状況を、「観客民主主義」と表現し、観客一人一人に「グラウンドに降りる」ように訴えた。消費者のままいるのでなく、当事者になって、自らプレーしよう、ということだ。

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僕も「消費」するばかりだった。少なくとも、当事者になることはなかった。それは、面倒だから。ずっと避けてきた。でも、それが自分を苦しめていた。だからこそ、現場に行きたいと切に願った。

2016年、春。僕は、休学をした。著者が代表を務めるNPO法人東北開墾にて、1年間のインターンをしていた。初めて出逢ったとき、その熱量に圧倒された。ひとつひとつの言葉に共感し、一心不乱に聞き続け、メモを取り続け、2時間があっという間だった。心が熱くなって、その場で「インターンしてませんか?」と聞いていた。その半年後には、僕は東北へ行くことになる。そこでの出逢い、経験、思考、発見、感動。それが僕の進む道を、大きく変える。農家・漁師の方々と出逢い、話を聞き、自分の手で、自分の人生を築く姿がかっこよかった。頭で考えるだけでなく、身体で感じたことを大切にしたい。そう思った僕は、いま林業の道へ進んでいる。


《 著者紹介 》高橋博之

「東北食べる通信」編集長、他。元岩手県県議会議員。

震災後、岩手県知事選に立候補。岩手県沿岸270キロを徒歩で遊説する前代未聞の選挙戦を展開するも、次点で落選。政治からでなく、事業から人々の意識を変えることを目指す。


《 著書紹介 》『都市と地方をかきまぜる:食べる通信の奇跡』

 東北の農家・漁師、都会に住む会社員、大学生、あるいは高校生、学校の先生、主婦、移住者…。様々な立場の人々の声が土台となって、この本はできている。それは著者が直接聞いた生の声である。だからこそ、著者の語る都会の課題、そして地方の課題を、読者は迫り来るリアリティをもって感じることができる。

 近年叫ばれる地方の課題。それを都市の課題と包括的に考えることで両者を解決する視点は今までにないものであり、単純な地方創生論では決してない。そして、都市・地方論の枠組みを超え、食や一次産業を通して見える現代社会のあり方、そしてその中に生きる人間のあり方。それを本質的な問いをもって読者に投げかけ、考えさせる一冊。なにかもやもやを抱えて生きる大学生、あるいは社会人、特に都会に生きる人々のための必読書。

《 概要 / Summary 》

●「生きる実感」の喪失、その原因。

 「生きる実感が湧かない」と悩む人々は多い。僕もそうだったし、僕の周りの大学生でも、言葉には出さずとも、「生きる実感」を求めていた人は少なくなかったと思う。

 このリアリティの喪失は、どこから来ているのか。それはこの成熟した「消費社会」にあるかもしれない。様々な仕事を分業し、生産性を向上し、経済成長してきた現代社会。そこでは自身の仕事で稼ぎ、生活に必要なモノを購入する。これが主流となっている。あらゆる財やサービスは商品化され、貨幣を介して様々な人やモノとの関係性を築く。これは工業はもちろん、農業でも、教育でも、医療でも、介護でも、あらゆる局面で見られる。対価を支払うことで「お客様」としてサービスを享受する。これは便利で、楽なことだ。自分の手を加えず、自分の頭で考えることなく、手に入るのだから。


●「消費」とは「他人事化」すること。

 しかしその弊害がいま、現れている。消費は受動的な行動だ。享受するモノ・サービスの裏側を想像することはない。「他人事化」しているのだ。すると「お客様」となった消費者は、段々とその欲望が肥大化し、要求は過激になる。もっと安く、もっと早く、もっと小さく、もっとかっこよく、もっとおいしく。我慢のできない消費者が、その権利を主張し、受け取ることを当然のことのように捉えるようになる。医療における「コンビニ受診」、教育における「モンスターペアレンツ」はその典型例と言えるのではないだろうか。

 それでいて、消費者は満足することがない。一たび「他人事」となると、そこで働く人々を想像することはなく、また想像がなければ共感もない。そして共感がなければその分野を「自分事」として捉えることはない。こうしてあらゆるモノ・サービスが商品化され、あらゆる分野に「お客様」である消費者は、「自分事」として捉える事柄が消滅してしまうのだ。この瞬間、どうして人は「生きる実感」など感じることができるだろうか。こう考えると「生きる実感」「リアリティ」は、何かの当事者になり、行動することでしか得られないのだ。


●「限界都市」行き詰まる地方、そして都市

 この豊かな「消費社会」において、リアリティの喪失へと陥る都市住民を見て、著者は「限界都市」と表現した。人口減少、少子高齢化で地方は行き詰まっている。しかし都市もまた、行き詰まっている。これはどうすれば解決できるだろうか。その方法が「都市と地方をかきまぜる」ことだ。地方には「生産者」と呼ばれる人々がいる。一次産業に携わる農家・漁師だ。彼らは僕たちが生きるのに必須の食べ物を生産する。ただの仕事ではない。それは自然を相手にした営みだ。人間のコントロールできない天候を読みながら、時に災害にも対応し、命を育てる。あるいは獲る。その営みに「消費」はない。自分の身体と頭を使って、自然に働きかける。そして全身全霊をかけても、すべては思い通りになるとは限らない。この営みを生業に、彼らは生きている。それは「生産」の行動だ。そこには実感としての「生」がある。

 都市と地方をかきまぜる。それは生産者と消費者をつなげることだ。現代では「生産」と「消費」が分断されてきた。その間は巨大な流通・販売システムが仲介し、効率的な仕組みが確立された。安価に安定供給することが実現したが、消費者は「生産」の現場から離れて生きる実感を失い、生産者は終わることのない要求に疲弊している。それを繋ぐことで、消費者は生きる実感を取り戻すきっかけとなり、現場を知った消費者は生産者に過剰な要求をすることはなくなるのではないか。なぜなら生産の裏側を想像し、共感することができるからだ。


●「グラウンドに降りる」

 元県議会議員の著者は、政治で見た問題が、一次産業や社会の様々な局面で見られることに気付いた。

「有権者も消費者も観客席の上で高みの見物をし、グラウンドでプレーしている生産者と政治家に文句だけ言っている。自分は安全なところにとどまり、決してグラウンドに降りようとはしない。今の時代、政治すらも消費の対象に立ってしまっているのではないだろうか。」

「大量消費社会では、食にとどまらず政治、医療、教育、まちづくり、そして身近な暮らしのありとあらゆる課題解決に至るまで、ほとんどお金で買える。つまりみんながお客さんで、どこもかしこも効率ばかりが求められている。」

「もちろんそのニーズに応える努力を、生産者がしなければならないのはいうまでもない。しかし限度がある。その限度を超え、生産する側が弱体化していくと、偽装や担い手不足などの問題が顕在化し、巡り巡ってその恩恵にあずかる消費者は困ることになる。」

過剰な消費者要求は、生産側を疲弊させる。これが現代社会の課題、その根底に横たわっている。では、どうすれば解決できるか。「消費」から「生産」へ参加することである。すなわち「お客様」から「当事者」になることである。これは食の分野だけにとどまらない。まずは物事の裏側を知ろうとすること。純粋な「消費」から、一歩ずつ自分の手を加えること。そうすれば、必ず、今よりもずっとよくなる。


《 書籍情報 》

著書:『都市と地方をかきまぜる:「食べる通信」の奇跡 』

著者:高橋博之

発売日:2016/08/17

出版社: 光文社

ページ:230p

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